CERN、欧州素粒子物理戦略を更新アップデート

次世代大型計画「FCC-ee」が、LHC後の有力候補に
スイス・ジュネーブ近郊に本部を置くCERN(欧州原子核研究機構)は、2026年5月22日、欧州における素粒子物理研究の今後の方向性を示す欧州素粒子物理戦略(European Strategy for Particle Physics)をアップデートしたと発表しました。今回のアップデートでは、現在稼働している大型ハドロン衝突型加速器LHCの科学的成果を最大限に引き出すことに加え、その後の時代を担う次世代大型研究施設として、電子・陽電子型のFuture Circular Collider、通称FCC-eeを優先候補とする方針が示されました。(*)
今回の発表は、単に次にどんな装置を作るかという話にとどまりません。ヒッグス粒子の発見から十数年が経った今、素粒子物理学が次にどのような問いに挑むのか、そしてCERNが今後数十年にわたり世界の高エネルギー物理学をどのようにリードしていくのかを示す大きな節目となるものです。

LHCの次をどうするか――素粒子物理の長期戦略
CERNといえば、多くの人が思い浮かべるのはLHCでしょう。LHCは地下約100メートルに建設された全周約27キロメートルの巨大な円形加速器で、陽子同士をほぼ光速まで加速し衝突させることで宇宙の根本的な構造を探る実験施設です。
そのLHCは2012年、標準模型が予言していたヒッグス粒子の発見という歴史的成果をもたらしました。ヒッグス粒子の発見は物質に質量が生じる仕組みを説明するうえで極めて重要であり、素粒子物理学の標準模型を支える大きな柱の一つが実験的に確認された瞬間でした。ヒッグス粒子の発見は素粒子物理に新しい時代を開いた出来事として位置づけられています。(*)
しかし、ヒッグス粒子が見つかったからといって素粒子物理学の探究が終わったわけではありません。むしろ、ヒッグス粒子は新しい道具になりました。なぜヒッグス粒子の性質は現在の値なのか。標準模型の外側には何があるのか。暗黒物質、宇宙の初期進化、物質と反物質の非対称性など、現在の理論では十分に説明できない謎はまだ多く残されています。
今回の戦略アップデートはこうした未解決問題に今後どのように挑むかを示すものです。
中期的な最優先課題は「高輝度LHC」
今回の戦略では、まず中期的な最重要課題としてLHCの高輝度化計画、いわゆるHigh-Luminosity LHC(HL-LHC / HiLumi LHC)の完遂が挙げられています。これは、LHCの衝突頻度を高めより多くのデータを集めることで、既存の装置から最大限の科学的成果を引き出すためのアップグレードです。(*)
素粒子物理では非常にまれな現象を観測するために膨大なデータが必要になります。ヒッグス粒子の性質をより精密に測定することも、新しい粒子や未知の相互作用の兆候を探すことも、データ量が増えるほど可能性が広がります。
つまり、LHCはまだ終わった装置ではありません。むしろ、これからの高輝度化によってヒッグス粒子や標準模型の詳細な検証、新物理の探索においてさらに重要な役割を果たすことになります。
長期的な本命として浮上したFCC-ee
一方で、今回の発表で特に注目されているのがLHCの次世代計画としてFCC-eeが優先候補に位置づけられた点です。FCC-eeは、電子と陽電子を衝突させる巨大な円形加速器構想です。FCC-eeがCERNにおける次の旗艦プロジェクトの好ましい選択肢として推奨されたと説明しています。(*)
LHCが陽子同士を衝突させる装置であるのに対し、FCC-eeは電子と陽電子を衝突させます。陽子は内部にクォークやグルーオンを含む複合粒子であるため衝突の中身は非常に複雑になります。一方、電子と陽電子はより基本的な粒子であり衝突の条件を精密に制御しやすいという特徴があります。
そのため、FCC-eeはヒッグスファクトリーとして期待されています。ヒッグス粒子を大量かつ精密に生成・測定することで、標準模型の予測からほんのわずかにズレる現象を探すことができるからです。もしそのズレが見つかれば、それは標準模型を超える新しい物理への手がかりになる可能性があります。
FCC-eeはヒッグス粒子をはじめとする素粒子の超精密測定を通じて、標準模型の基礎を深く理解し、新物理の発見機会を開く可能性を持つとされています。(*)
なぜ今、ヒッグス粒子をさらに調べるのか
ヒッグス粒子は発見された時点で大きな話題になりました。しかし、物理学者にとって重要なのは存在するかどうかだけではありません。むしろ発見後に本格化するのが、その粒子の性質をどこまで詳しく測れるかという研究です。
ヒッグス粒子が標準模型の予測どおりに振る舞うのか。それとも、ほんのわずかに違う性質を持っているのか。この違いは、新しい物理法則の存在を示すかもしれません。
たとえば、暗黒物質の正体は現在も不明です。宇宙には通常の物質よりもはるかに多くの暗黒物質が存在すると考えられていますが、それがどのような粒子なのかは分かっていません。また、宇宙がなぜ反物質ではなく物質に満ちているのかも、標準模型だけでは十分に説明できません。
ヒッグス粒子は、こうした未解決問題につながる窓になる可能性があります。だからこそ、FCC-eeのような高精度測定に特化した次世代施設が重要になるのです。
2028年が大きな判断の節目に
今回の戦略アップデートによってFCC-eeの建設がすぐに決まったわけではありません。CERN理事会はCERNの運営陣に対し加盟国、準加盟国、非加盟国、そしてEUなどの関係機関と協議を始め、FCC-eeに向けた財政的に実現可能な資金計画を検討するよう求めています。(*)
今後2年間、CERN運営陣は戦略実施の状況を毎年報告し各国の意思決定に必要な情報を提供します。そして、科学的・技術的・財政的な実現可能性、さらにCERNのホスト国であるフランスとスイスでの公的協議の結果などを踏まえ、2028年までにFCC-eeに関する判断ができるようにする方針です。(*)
つまり、2026年の今回の発表はFCC-ee建設決定ではなく、FCC-eeを最有力候補として、正式判断に向けた具体的な準備段階に入るという意味合いが強いと言えます。
大型加速器計画は科学的意義だけでなく建設費、国際協力、環境影響、地域社会との関係、技術的リスクなど、多くの要素を含みます。そのため、最終決定には慎重な検討が必要になります。
2020年戦略から続く流れ
今回の2026年戦略アップデートは2020年に行われた前回の欧州素粒子物理戦略更新を土台にしています。2020年の時点ですでに、LHCの運用終了後に向けて、電子・陽電子型のヒッグスファクトリーを次の優先施設とする重要性が強調されていました。LHCは2041年に運用寿命を迎える見通しであり、その後を見据えた次期施設の検討が進められてきました。(*)
その流れを受けてCERNと国際パートナーはFCCの実現可能性調査を進め、2025年3月に調査結果を公表しました。その後、2025年11月にCERN理事会によるレビューが行われ、今回の2026年戦略更新へとつながっています。(*)
このように見ると、FCC-eeは突然出てきた構想ではありません。長年にわたる議論、技術検討、国際的な意見集約を経て、LHC後のCERNを担う最有力計画として位置づけられつつあるのです。
科学だけでなく、技術と人材育成にも波及
FCC-eeの意義は、素粒子物理の研究成果だけに限られません。FCC-eeが新技術の開発を促進し、若手の科学者、エンジニア、技術者を数千人規模で育成する場にもなると述べられています。(*)
大型加速器計画では超伝導技術、精密測定、真空技術、データ処理、検出器開発、低温工学、制御システムなど、さまざまな分野の最先端技術が必要になります。こうした技術は基礎科学のために開発されながら、医療、産業、情報技術などへ波及する可能性もあります。
CERNは過去にも素粒子物理だけでなく社会に広く影響を与える技術を生み出してきました。よく知られている例としてはWorld Wide Webの誕生があります。もちろんFCC-eeがどのような技術的波及効果を持つかは今後の話ですが、大型科学プロジェクトが人材と技術の育成拠点になることは間違いありません。
将来のさらに大きな加速器への道も開く
FCC-eeの構想で興味深いのはそれ自体がゴールであると同時に、さらに将来の加速器への道を開く可能性がある点です。FCC-eeが将来的なハドロン衝突型加速器に向けた基盤にもなり得ると説明されています。
具体的には、トンネルやインフラの多くを再利用し、より高いエネルギー領域に直接到達する将来計画につなげられる可能性があるとされています。(*)
これは、まず電子・陽電子衝突によってヒッグス粒子や標準模型を精密に調べ、その後同じインフラを活用してより高エネルギーの衝突実験へ進むという長期的なビジョンです。
素粒子物理では、精密測定と高エネルギー探索の両方が重要です。精密測定は既知の粒子の性質を細かく調べることで新物理の兆候を探し、高エネルギー探索は未知の重い粒子を直接作り出す可能性を狙います。FCC-eeは前者を担い、その先のハドロン衝突型加速器が後者を担うという大きな流れが想定されています。
世界規模の協力が不可欠に
CERN理事会議長のCostas Fountas氏は、今回の戦略アップデートについて、高エネルギー物理学コミュニティとCERN理事会が一体となって重要な更新に臨み、FCC-eeが今後数十年にわたってCERNの世界的役割を維持するための有力な旗艦計画として浮上したと述べています。(*)
また、CERN事務局長のMark Thomson氏は、まず高輝度LHCの重要性を改めて強調したうえで、FCC-eeが今後数十年にわたりヒッグス粒子や他の素粒子の超精密測定を通じて宇宙の基本構造への理解を深める世界的な研究インフラになり得るとコメントしています。(*)
こうした発言からも分かるように、FCC-eeはヨーロッパだけの計画ではなく世界中の研究者や機関を巻き込む国際的なプロジェクトとして想定されています。巨大科学は一国だけで完結する時代ではなく、国際協力によって成立する知のインフラになっています。
今回の記事のポイント
今回のCERN発表の重要なポイントは、次のように整理できます。
第一に、LHCの高輝度化を完遂しその科学的ポテンシャルを最大限活用することが中期的な最優先課題とされたこと。
第二に、LHC後の長期的な旗艦計画として電子・陽電子型のFCC-eeが優先候補として推奨されたこと。
第三に、FCC-eeはヒッグス粒子の精密測定を中心に標準模型の理解を深め、新物理の兆候を探るための施設として期待されていること。
第四に、2028年までに科学的・技術的・財政的な実現可能性や公的協議の結果を踏まえて、FCC-eeに関する重要な判断が行われる見通しであること。
そして第五に、この計画は基礎科学だけでなく、技術開発、人材育成、国際協力という面でも大きな意味を持つことです。
ヒッグス粒子発見後の時代をどう切り開くか
ヒッグス粒子の発見は、素粒子物理学にとって大きな到達点でした。しかし、それは同時に新しい出発点でもありました。ヒッグス粒子をより詳しく調べることで、標準模型の限界や、その先にある未知の物理へ近づけるかもしれません。
今回CERN理事会がアップデートした欧州素粒子物理戦略は、その次の時代に向けたロードマップです。高輝度LHCで現在の装置の能力を最大限に引き出し、その先にFCC-eeという新たな研究インフラを見据える。この流れは、素粒子物理学が今後も長期的な視野で宇宙の根本原理に挑み続けることを示しています。
2028年に向けて、FCC-ee計画はさらに具体的な検討段階へ進みます。建設が正式に決まるかどうかはまだこれからですが、今回の戦略更新によってLHC後のCERNの未来像はかなり明確になってきました。
宇宙は何からできているのか。物質はなぜ質量を持つのか。標準模型の先には何があるのか。こうした根源的な問いに挑むための次の大きな一歩としてFCC-eeは今後ますます注目を集めることになりそうです。
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